綿


いま助けてくれと叫んでも、その声は誰にも届かないだろう、なぜなら細く弱った喉にいっぱいの白い綿、綿みたいな白い憂鬱を、気道がかんぜんにふさがるまでぎゅうぎゅうにつめこんでいるからで、ある瞬間ぼくはふと我にかえり、息ができん苦しいなどと、ぐうぐうもがきだす、しかし当然のようにして、そのときもしっかりとエゴティストだ。救われないまま報われないまま、最期まで自分のことしか考えられないまま、で、縊死。

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植物の茎


よくわからないけどたぶん僕の感情の表面部分にはちょうど植物の茎の皮のようにすこしぶ厚くて緑色の防御壁があるのだと思う。それが剥けて感情のとろとろした中身がさらけ出されるとなんかもうだめ、どんな弱い刺激でも死にそうになるほど落ち込んでしまう、落ち込むというよりももっと重くて瞬間的なかんじなんだけど。刺激っていうのはたとえばぜんぜん知らない他の人の深爪だったり、出してる声のトーンや笑うときの感じだったり、あるいは1ミリの肉体的接触だったりする、電車のなかとかを想像してもらえるとわかりやすいと思うな、車両の閉鎖空間にいろんな人がパック詰めされてゆらゆら動いたりしててそのときのとん、あるいはぴたり、という触れあい、これが弱い刺激のイメージ。つまり要するに僕にとっての刺激物とかパニックを引き起こす原因とかっていうのはまあこれすなわち他人であるわけで、なるほどこういう感情の皮が剥けた瞬間には俺は誰とも関わるべきではないのだと、そういうふうに理解した、けれどまあじっさい俺だって誰かの(あるいは自分の)他人なんだよな、本質的な脅威としての他人、薔薇みたいな棘を茎にくっつけている他人。だからいまこの瞬間に知らない人たちの感情の中身のとろとろ部分を痛めつけてしまってるかもしれません、そのときはどうする、いややっぱり閉じこもるべきか、誰とも関わるべきではないのか、でもそもそもそんなことってできるのか。苦しい。緑色の絶望。

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ひとり暮らしの歌たち


ひとり暮らしをしていたときに作った曲を大声で歌っていたら、なんだか懐かしい気持ちになってきた。


僕は4月末まで期間限定で姉の部屋を借りてひとり暮らしをしていた。23歳にしてはじめてひとりで生活をしたので、いろいろ困難とかもあったが(そういえば水道が止まったりしたこともあったhttp://c-kugenuma.hatenablog.com/entry/2016/04/09/195401)、だいたいにおいてかなり謳歌できていたと思う。といっても、たとえば友人を招いたり女の子を連れこんだり、そういうことはいっさいせずに、孤独に粛々と生きていたんだけれど。


ずっとあこがれていたことがある。それは、べつにたいしたことじゃないのだけれど、「東京の(せまい)空を見上げながら、古いアパートのベランダで(あるいは開けはなった窓ごしに)たばこをふかす」、というものだ。『ストロベリーショートケイクス』というわりと好きな映画があって(どうやら漫画原作らしい。読んでいない)、そのなかでフリーターの里子を演じている池脇千鶴が似たようなことをやっていた。漠然としたイメージながらもいいなあと思っていたのは、この一連の動作からただよう「生活感」だ。東京で、ひとりで、ほそぼそと、でもちゃんと生きている感じ。その強さと、自由さと、ある種の向こう見ずさと。それらはぜんぶ僕に足りないものだった。だから、あこがれていた。


それが、自分ではなにも行動しないまま部分的だとはいえ簡単に叶ってしまうというのは、けっこう衝撃的だった。もちろん僕は姉の「おこぼれ」をもらったにすぎないから、ぜんぜん「ちゃんと生きて」なんていないんだけれど、それでもその、なんというか、東京のひとり部屋と窓さえあればコピーはできてしまうわけである。


晴れた日、窓をがらりと開けて、サンダルをはき、ベランダに出る。陽だまりになっているコンテナのうえに腰かけて、たばこをくわえ、ライターで火をつけて、けむりを吸いこむ。ぼんやりと外の景色を見ながら、ふうっと、ため息をつくみたいに、けむりを吐きだす。ありゃあ、叶っちまったなあと思って、なるほどこんな感じだったんだな、と納得した。なんだか思っていたのとおなじような、違うような、妙に手ごたえのない夢の達成で、ちょっと間が抜けてしまったのを覚えている。


話をもどそう。作曲の話。


姉の部屋に愛用のアコースティックギターを持ちこんでいたので、思いついては自由にいろんな曲を歌っていた(角部屋で、隣人は基本的に夜しかいなかったので、昼間だと大声を出しても迷惑にはならなかった)。「夢見るバンドワゴン」とか「悲しみの果て」とか「BABY BABY」とか「ジュテーム?」とか、たくさん。すると、リラックスした状況だったからか、けっこう頻繁にメロディーとコードがうかんでくる。それに歌詞をつけて、簡易録音をしたりして、自分でひそかに盛り上がった。そんなふうにして、けっきょく3か月間で4・5曲くらいできたのかなあ、我ながら好きな曲もあって、歌うとなんかぜんぜん違う感じになっちゃうんだけど(作曲するときには脳内で好きな歌手の声が流れていたから)、まあ、それはそれで、アマチュア的な享楽としてはいいのかもしれないなあって思った。このとき作った曲はぜんぶ僕の宝物だ。


僕は肺がぶっ壊れていて、息が長く続かない。あとそもそもなんとなく自分の声がきらい。それでも、曲を作って歌うことは基本的に楽しい。『ソラニン』の芽衣子さんによると「評価されてはじめて価値がでる」らしいから、だれにも聴かせていない僕の曲たちには、たぶんなんの価値もないのだろう。だけどやっぱり、それでも楽しい。純粋にわくわくするし、できあがったものを頭のなかで流していると、なんかほんとうに「存在する」曲みたいに思えてくる。他人に聴かせたり、お金をとったりしない以上、楽しいのがいちばんだよね、きっと。


しかし、貴重な時間を割かせてまで他人に自分のエゴを聴かせるなら、あるていどは上手くなければいけない。つまり努力と才能が必要、ということ(誰かに刺さってしまいそうなので留保。これはあくまで僕自身の戒めなので、他の人に押しつけるつもりはない。だから君は君のやりたいようにやればいいし、じっさいにやってもいるだろうし、そもそも僕は自由に生きている人が好きなのだ)。


ということで、そのどちらもが伴っていない僕は、明日からもひとりで楽しく歌いつづけることにして、思い出をふりかえるのを、一旦やめにする。

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↑これは商店街を散歩しているときに見つけたトムくんです。

ゴールデンウィーク

 
さいきんものすごいいきおいでいろんな物語を呑み込んでいる。毎日毎日体内にとり込まれるそれらは胃のそこにどすんどすんともとのすがたのまま落ちていって、そのまま数日経っても消化されずにすこしずつ白くにごった澱のようなものへと変化していく。それなのにまたほら僕は今日もなにかうまそうな物語をひとつふたつと手にとっては呑み込もうとあんぐりくちをあけるから、追いつかないまま堆積していく、物語の死骸たち。すこし可哀想におもえる? うるせえよ、僕だってどうしたらいいかわかんねえんだよ。
 
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テンペスト


日ごろの研究の延長としてちょっと思うところがあって、シェイクスピアの『テンペスト』を読んでみた。僕は浅学なのでなかなか戯曲を手にとる機会なんてないから、わりと新鮮で記憶に残る読書だった。


読んだのはちくま文庫の松岡和子訳。注が詳しくてよかった。


テンペスト』は、英国でいちばん有名な(と断言してもちろんいいだろう)劇作家ウィリアム・シェイクスピアが書いた戯曲で、初演は不明だが、1611年に上演されたことは確かであるとのこと。弟の策略で地位を奪われた元ミラノ大公のプロスペローが妖精の力を借りて公国を取りもどす話だ。歌もあるし踊りもあるし、最後は大団円で、読んでいてわくわくする。じっさいに観劇したらきっとたのしいんだろうなあ。


とくに気に入ったのは第4幕第1場で妖精たちが踊る祝福のダンスが終わったあとにプロスペローが言う、以下のセリフ。


我々は/夢と同じ糸で織り上げられている、ささやかな一生を/しめくくるのは眠りなのだ。


「我々」と「夢」をひとしく織物にたとえているのがいい。人それぞれの糸をつかって、みんなちがった織り方で、「我々」と「夢」は、織り上がってできている。そしてその一生は眠りによって「しめくくられる」のだ。しかもこの言い回しはちょっと、いままさに(僕の脳内で)上演されている演劇『テンペスト』そのものの隠喩っぽくもなっている。


翻訳に感動したので原文はどうなっているのかと思い、調べた。すると、


We are such stuff / As dreams are made on, and our little life / Is rounded with a sleep.

ということみたいだ。……なるほど、これは正直、日本語訳のほうがイメージに富んでいてうつくしいと思う。そんなこともあるのだなあ、と感心した。


戯曲はおおくがセリフで構成されており、文字が詰まっていないので、わりと短時間で読めるのも魅力のひとつだ(僕はめんどうくさがりだから)。まだ読んでいないほかの作品も本棚から引っ張りだして、ぱらぱらめくってみようかな。

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躊躇い


いまのところ、僕の人生をもっとも強く規定する力は「躊躇い」だ、と思う。躊躇いは声を出すこと、手を伸ばすこと、その他もろもろの働きかけを阻害する。地味でいじわるな悪魔。


僕は躊躇っているときの自分がすごく嫌いだ。ちいさくてたよりない。どうしても身体がそわそわと動いてしまう。


きっと、ひろいデパートのなかで親とはぐれて迷子になった子どものように見えているのだろう。焦りながら、きょろきょろと、なにかのきっかけを探してさまよっている。


それで、ぜんぶが過ぎ去ってしまい、手の打ちようがなくなったあとで、めちゃくちゃ後悔する。もう取り返しがつかなくてがっかりする。まただ、と思う。ああ、まただ、僕はなんど同じことを繰り返せば気が済むのだろう?


ちなみに、躊躇いは英語でおもにhesitationだが、たまにwaveringと表すこともある(と思う)。後者の躊躇いは波のように漂っているイメージとむすびつく。


迷子の子ども、それから、波のように漂うこと。いずれにせよ躊躇いが僕に想起させるのは、孤独な情景だ。


躊躇ってばかりいるのは、孤独だからなんだろうか。

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運動のうちに


「われわれの本性は運動のうちにある。完全な静止は死である。」(ブレーズ・パスカル


おそらく君も僕も、この2週間くらいのあいだに、たとえ自分自身ではわからなくても、決定的に、どこかしらが変わってしまったんだろうな、と思う。

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同人雑誌の妄想話


この前、ともだち3人と新宿で飲んだときに、「もし俺たち4人が同人雑誌をつくるならどんな感じにしたい?」って話をした。「いやもちろんあくまで『もしも』の話だぜ、だからべつに真剣に考えなくてもいいんだけど」


僕たちはひとりずつコンセプトを言いあう。ユリイカっぽい感じにしたいね、でも一般読者が手に取りやすいほうがいいな、云々。


僕は、たぶん、つくるなら、僕らみたいなひとが集まるコミュニティみたいな雑誌がいい(だから一般読者とかは考えていない。あくまでエゴティスティックにいくべきであると思う)。


僕らみたいなひと、つまり、明け方すぎに、カーテンを閉めきった部屋で、ひとりきり、眠れずに、無駄に携帯の画面ばかり見てしまう、底冷えするほどさみしいんだけど、でもなにかいろいろなものとのあいだに距離を感じてしまっているから、だれかと繋がりたくてもうまくいかないような、そんなひとたちのための、ゆるい交流の場。


「僕はいつもそんなふうに文章を書くからさ、読んでるひとにもその雰囲気が伝わる感じがあればいいんだけどね。誌面からノートパソコンの明かりが透けてみえるようなさ。声にならない声、悲痛でまっすぐなのが聞こえてくるような。なんというか、いやこいつぜったい社会人じゃねえよなっていう。フリーターとか院生とか、そういうふうな。一人じゃないぜ的な。


……あれ、わかるよね?」


ぜんぜんわかってもらえませんでした。「ハハハそれ誰が読むんだよー」だってさ。

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やきもち


あまりよくは知らないけれどそれなりの好意を抱いているていどの個人から他人や特定の物事についての話をされると、僕たちは困ったことに妙な嫉妬や羨望を抱いてしまう。「ああこの人は自分のあずかり知らぬところでさまざまな関係性をつくっているのだなあ」と思って苦しくなってしまう。


僕たちは僕たち以外のみんなが孤独であれと願っている。とくにあなたは、あなただけには、さみしい夜を過ごしていてほしいと思っている。


だから、けっきょくのところ、安全なのは「自分自身の内面についての話」なのだ。あなたしか登場人物のいない、しゃっくりみたいにちいさくて断絶された叫び声によって語られる、内側の物語。

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毒づくこと


僕だっていつもねばねばと暗いわけではない。こう見えて(どう見えているのかはわからないけれど)、わりとあっけらかんとしているタイプの人間だと思う。よく冗談を言うし、たまに他人のことを毒づいたりもする。


そう、毒づき。毒づくにも技術が必要だ。できればこういうのは軽快に聞こえるほうがいい。質のいい包丁で白菜を切るみたいにさくさくっとやりたいものである。

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