代替可能性
労働の、あるいは言論の場における、僕という存在の代替可能性(substitutability)。これくらいの働きをして、これくらいのことを言うような人間なんて、僕以外にもたくさん、山のようにいて、だからいまこの瞬間に僕という特定不可能なひとりの男(a man)が忽然と姿を消したとしても誰も何も困らないのだ、ということ。
それは、基本的には、いいことだ。
「いつ消えてもかまわない」という事実はこのことについて考える僕をたいてい穏やかで軽々とした気持ちにさせてくれる。けっきょくのところ僕はたんなる代替可能な部品でしかない、したがって、こんな部品でしかない僕は、いろいろなものにたいしてまるで責任を負っていない、つまり自由だ、と思えるから。
しかし一方で、たまに、えっと、調子がわるいときとかに、否応なく他人と僕との途方もなく遠い距離をあらためて意識させられてしまうという、このことがもたらすさみしさやむなしさに、打ちのめされてしまいそうになる。
僕の労働や言論はもちろん代替可能。じゃあ、このさみしさやむなしさは? このぼんやりと麻痺した悲しみは?