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(創作)横浜駅にて


横浜駅の改札前を足早に歩いていると、ふいに肩を叩かれた。
    反射的にふりかえったさきには、スーツ姿の知らない男のひとが立っていた。細いあごには無精ひげが薄っすらとはえていて、羽織っているダークグレーの背広はセール品らしくくたびれている。おじさんとまではいかないが、おにいさんとも呼べない、ちょうどその中間くらいの、移行期の男のひと、という感じだった。
    「あの、これ、あなたのですよ」
    男のひとは鈍い黄色の立方体をわたしに差し出した。古びたちゃちなブリキ缶だった。かどは泥がこびりついているみたいに赤茶く錆びついている。側面にはエメラルドグリーン色をしたポップな象がプリントされており、そのホースみたいな馬鹿げた鼻からは水がじゃばじゃばと噴出している。缶はなんとなく全体的に懐かしいような雰囲気をまとっていた。昔のドラえもんのビデオ映画とかに出てきそうだった。
    とはいえ、こんなものに見覚えはない。
    「ちがいます」とわたしは言って、すぐに立ち去ろうとした。急いでいた。五時からヤマハでピアノのレッスンがあったのだ。先生の長門さんはきびしいひとで、わたしがちょっとでも遅刻すると四十五分のあいだずっときげんが悪くなるのだった。
    「洋子ちゃんさ、」と長門さんは憎々しげに言う。「もう来年から高校生になるんだから、遅刻なんてありえないわよ。今日はレッスン延ばさないからね、当たり前だけど」
    「はい」とわたしは小さな声でこたえる。内心でうるさいオバサンだなあと毒づきながら。オバサンはべつにわたしが遅れようと不利益なんてないくせに。のほほんと楽譜をみながら待っていればいいだけじゃないか。なんでわざわざこう保護者めいたふるまいをするんだろう。
    そんなふうに先週怒られて、だから今週こそはちゃんと行こうと思っていたのだが、それでもなんだかやっぱりめんどうで、ぼんやりとリビングにあるアップライトの前に座っていたら、いつの間にか目標の電車を乗り過ごしていた。気づいたときには遅かった。
    余裕で間に合う、という電車から、一本後に乗り込んだ。わたしは足がはやいから、すこし走ればまだなんとか平気なはずだった。それなのに。こないだママに買ってもらった白いチュールスカートがばさりとはためいて、わたしの太ももが前に突き出た。へんなのに絡まれてしまった。もうぎりぎりかもしれないな。
    「いや、君のものなんだ」
    駆け出そうとしたわたしの手首を、男のひとの白くて筋ばった指がぎゅっとつかんだ。
    その思いがけない強い力にわたしは動揺した。痛い。なんなの意味わかんないと思って、彼のほうを振り返った。そして、男のひとのくたびれたような顔に、ぞっとするような笑みがうかんでいるのをみた。細い目だった。たかい鼻で、薄いくちびるだった。わたしはそのすべてがひん曲がった笑みをうかべているのをみた。
    わたしの脳はいっしゅん麻痺して、あたまのなかに空白がうまれた。男のひとはわたしのなかにできた空白を確認してから手を離した。逃げることを考えたけれど、ぴくりとも動かなかった。男のひとの薄いくちびるがひらいた。
    「なあ、俺だよ。もう気づいたろう? 悪いな、びっくりさせたかったんだ。これまでずっと会いたかったんだよ。さみしい思いをさせてしまった。だって君がこれを落としていったのはずいぶん前で、あれから俺たちは離ればなれだったんだから」
    知らない、と思った。
    わたしは男のひとの顔を呆然とみつめていた。この表情も、この声も話し方も、そしてこのブリキの缶も、なにひとつ親しんでいない。彼はまったくの他人だった。この男のひとがわたしの人生にかかわったことなどこれまでいちどもなかったはずだし、当然これからもかかわりあうことなどないはずだった。
    「知らない」とわたしは言った。「わからない」
    男のひとの瞳の色が沼のように暗くどろどろとした黒緑に変わった。その眼はかたく凍りついていたが同時に燃えているみたいに滾っていた。わたしは彼の手に握られた缶がへこんで音をたてるのを聞いた。
    「馬鹿にしやがって」と男のひとはつぶやいた。「ずっと待っていたのに。馬鹿にしやがって」
    男のひとはポケットから折りたたみ式のナイフをとりだして、刃を飛び出させると、こちらに駆け寄ってきて、逃げるわたしに背後から突進しながら、力いっぱい、太ももの裏を刺した。
    内側から爆発するような痛みを感じて、わたしは崩れ落ちた。ほとんど息ができなかった。太ももから突き出している異物への強い違和感。頭がくらくらした。赤黒い血がタイルにじわじわと広がっていくのがみえた。刺された、とわたしは思った。わたしたちのまわりを流れるように歩いていた人びとはまずぴたりと停止し、ついで引き潮のように後退してわたしを避け、いまではたくさんの大きな音を発生させていた。もうどうすることもできない。痛みが全身を満たした。わたしは叫びながら痙攣した、すると太ももからあふれた血がわずかにとぷとぷと波立った。生臭いにおい。白いチュールスカートはすでにびったりと黒く染まっていた。わたしを取りかこむ人びとの数はしだいに増えていくようだった。
    男のひとはいつの間にか姿を消したらしい。黄色いブリキ缶だけが置き去りにされて残っていた。わたしは倒れたままだったが、両目は男の投げ捨てたブリキ缶の底をとらえていた。鈍い金属光沢のある缶の底には、子どもっぽい震える文字で、「ようこ」とサインがしてあった。

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