小説とたばこの話

おはよう。眠れなくなっちゃったので文字を打つことにしました。今日はたばこについてです。けむりのにおいが嫌いな人もけっこういるってよくわかってるから、そういう人の前では積極的にたばこアピールはしないんだけれど、まあ、これはブログだし平気だよなあ、ということです。

 

僕は大学を卒業したばかりの23歳で、文学研究者見習いをしている。そして他の多くの文学研究者見習いたちと同じように、僕もふだんからたばこを吸う。いちばん好きな銘柄はピースだ。ピースは甘くて重いたばこ。よく「おじさんみたいだ」なんてことを言われるのだけれど、そんなのぜんぜん気にしない。だって美味しいんだもん。
 
ピースのいいところのひとつはコーヒーに合うところだと思っている。僕はピースが発散するバニラの香りに包まれて本を読みながらコーヒーを啜るのがすごく好きだ。そうしながら、ときどき、なんというか、遠い昔から今までたくさん存在していた「僕とよく似た人たち」とのつながりみたいなものについて考えてみたりもする(ちょっと恥ずかしい)。


後輩からプレゼントされた小説、江國香織『神様のボート』の主人公、葉子もたばこを吸う人だった。葉子は別れた不倫相手との再会をいつまでも待ち続けるロマンチックな女性である。いわゆる「旅がらす」というやつで、ピアノの先生とバーの店員で生計を立てつつ、娘の草子といっしょにいろいろな街を転々としている。
 
葉子の、孤独なんだけれどしなやかな強さを持った生き方と、たばこという小道具はよくマッチしているように感じる。
 
「三組の井上先生は産休だって。今朝朝礼で挨拶したよ」
 ドーナツを食べながら、草子が言った。
「井上先生は三つ編みでかわいいから、会えなくなって残念だな」
「かわいいの?」
 コーヒーを啜り、煙草に火をつけて私は訊いた。
「かわいいよ」
 草子はわけしり顔で言う。
「ニンプ服もいつもかわいいの着てる」
「ふうん、そう」
 コーヒーはすこし濃すぎた。口のなかに強い苦味がひろがる。
 
コーヒーとたばこ。小説的な装置としてはありがちかもしれないけれど(よく言うよ)、僕は江國香織のそういうベタなところに好感を持った。いやでもまあじっさいこれらは本当によく合うんだよね。『コーヒー・アンド・シガレッツ』なんて映画もあるくらい。
 
葉子の娘の草子によれば、葉子はいつも「煙草とボディシャンプーのバニラと香水のまざったような」匂いがするそうである。僕はそのにおいをなんとなく想像することができるような気がする。
 
ところで、葉子が吸っていた煙草の銘柄を江國さんは明らかにしていない。何を吸っていたんだろうなあ……

f:id:c_kugenuma:20150913075707j:image

来週から旅行に行くよっていう話

来週から海の向こうへ旅行に行くので、さいきんはその準備で日中わちゃわちゃと忙しい。たかだか5日間くらいの旅行だとはいえ、海外に行くとなるといろいろと揃えなきゃいけないものもあるし、ふだんしている塾の先生の仕事もまるまる1週間穴をあけてしまうぶん、その引き継ぎだってちゃんとしなければならない。それにお金の工面だってけっこう深刻だ。今まで貯めていたお金をおろして、そしたら来月からの生活についての不安がじゃばじゃばと噴出したりもするし。「よーしじゃあちょっくら行ってこようかな」っていう軽いノリで決めた旅行なのだけれど、僕みたいな小市民にとってはしっかり生活を揺るがすくらいの衝撃になってしまう。海外旅行は大ごとだ。予想はしていたのだけれど、いま、たいへんだあたいへんだあ、ってなってるとこ。


なんか今日はやけに文章の年齢が低いな。まあいいか。


渡航先はオーストラリアになった(僕が積極的に「行きたいっ!」てしたわけじゃないからこういう微妙な表現になる)。オーストラリア。南半球の国だ。どうやらそこには冬に向かいつつある昨今の日本とはまったく真逆の季節があるらしい。僕たちがカーディガンをおろして秋にそなえている一方で、いまから来る夏をわくわくしながら待っている人たちが存在していて、あとちょっとしたら自分がそこに飛んでいくなんて、ぜんぜん想像できないなあって感じだ。


そうそう、薄々わかってはいたのだけれど、僕はどうもインターネットにおいては極端に根暗なタイプらしい。Twitterのタイムラインに流れてくるいろんな人たちの近況にたいして、なんでだろう、あんまりリアクションができないのだ。自分のなかではブツブツいろいろ反応してるのにもかかわらずである(きもい)。それってあんまりTwitterを活用できてない気がして、我ながらけっこう残念に思う。ほんとはもうちょっと気さくにリプライを送りあったりしたいんだけれどなあ。


このことと関係あるかわからないのだけれど、しばしば自分が、タイムラインの文字列に何かしらの影響を(なかば無意識的に)受けていたんだってことに気づくときがある。


たとえば、僕はときどき、自分がある行動をしたあとに、その行動とまったく同じ行動をすでにしていた誰かの存在をタイムラインのなかで事後的に知ったりすることがある(例:自分がダブルチーズバーガーを食べたあとになってはじめて、「あ、もうタイムラインのなかでダブルチーズバーガーを食べたひとが居たんだ」って気づいたり)。もしくは、僕はときどき、自分が何かを欲望したあとに、まったく同じ何かをすでに欲望していた誰かの存在をタイムラインのなかで事後的に知ることがある(例:ダブルチーズバーガーが食べたいなあと思ったあとになってはじめて、「あ、もうタイムラインのなかで『ダブルチーズバーガーが食べたい』って言っているひとが居たんだ」って気づいたり)。


みたいなね。そういうことってたまにありません?


僕はこれまで自分のささやかな世界を透明なドームのなかに閉じこめて、そこで山椒魚のようにぬるぬるぬくぬく暮らしていたつもりだった。でも、よくよく考えると、実はそのドームにはいくつもの亀裂が走っていて、そのまわりに浮いている誰かの文字たちが知らず知らずのうちにその亀裂を通って僕の世界へと侵入してきていたのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は名前も知らない誰かとつねにすでにつながっているのだってのを事後的に知ることになる。


今回の旅行も、たぶんそんな感じで決まったんだろうなあと、いまになって思う。

f:id:c_kugenuma:20150913060620j:image

海を漂っているような気分について、あと、このまえ見た映画の話

せっかく誕生日だったんだから、その日にあったことをまとめて書いちゃおうと思ってこの画面を起動させたのだけれど、改めてこうやって頭のなかの出来事をぐるぐるとめぐっていると、けっきょくどこから書きはじめればいいのかわからなくなってしまった。文章を書くのって骨が折れるし難しいですね。

 
 
 
 
コンパスや海路図を持たずにひとりで海のうえを漂っているときと似たような気分になることがたまにある。ううん、もちろん僕はひとりで船に乗った経験なんて一度もないし、そもそもコンパスや海路図や、あるいはレーダーなんかって、きっと最近はもうほとんどの船にあらかじめ備わっているんだろうから(たぶん)、そんなふうに海をただ漂うみたいなことがもはやできっこないのはわかっている。だからこれはぜんぶ想像の話で、つまり僕が言いたいのは、ある瞬間の僕の気分は「想像上の漂流」に似ているってことだ。
 
 
その船はきっと茫漠とした海のうえにぽつんと浮かんでいるんだろうなと思う。
 
 
エンジン音の最後の切れ端が海と空に吸い込まれていってからもうずいぶん時間が経った。僕は船の縁に腰を下ろしてまわりの景色を眺めている。脈動するようにゆらゆらと波打つ水面がどこまでも続いていて、低くて重いグレー色の雲がどこまでも続いている。「もうすぐ雨が降る」というたしかな予感がある。僕の髪の毛は船上で潮風をうけたためにごわごわとこわばっており、指先は長いあいだ湯船に浸かっていたときみたいにふやけている。伸ばした右足のズックは先のほうが海水でできた水たまりに触れて、その部分だけ黒く変色している。
 
 
こんな感じのイメージ。こんな感じの気分。
 
 
そのときの僕はべつに特定の何かについて考えているわけではないんだろう。頭を働かせるには落ち込みすぎているし、それにたぶん、こういう状況で何かを真剣に考えようとしたって、けっきょくたいした考えに至るわけないのだ。だから海のうえで途方に暮れている僕が思いつくのはきっと、ありきたりで、凡庸で、断片的なことなんじゃないかなって気がする。


* 
 
 
誕生日は後輩の女の子に誘われてデートをしてきた。彼女は僕が所属していた文学ゼミのふたつ下で、大学を卒業した今でも関係がつづいている数すくない友人のひとりだ。僕たちは数ヶ月ごとに会って、読んでいる本についての話だったり、いまのお互いについての話だったりをする。たまたま彼女の予定が空いている日が僕の誕生日だったからってことで会ったんだけど、彼女が誘ってくれなければ僕はひとりでベッドのうえをごろごろしていただけだったろうから、正直とってもありがたかった。
 
 
その日は霧みたいに細かくてしっとりとした雨が降っていた。僕たちは東京駅で待ち合わせて、有楽町の映画館までおしゃべりしながら歩いた。映画を見にいく約束だったのだ。
 
 
僕たちは『わたしに会うまでの1600キロ』という映画を選んだ。母親が亡くなって自暴自棄に陥った女性が、アメリカのパシフィック・クレスト・トレイルをハイキングすることで自分を取り戻していくという話。こう書くとすごくうっとうしい映画のように思うかもしれないけれど、原題はWildで、邦題から連想されるようないかにもガールズ・ムービーっぽいあざとさは意外となかった。足の爪がはがれるシーンだったり、セックスの描写だったり、わりと生々しいところがあるから、ちょっと注意したほうがいいかもしれない。
 
 
この映画のポイントはたぶんふたつあって、ひとつは荒野にたいするアメリカ人の独特な(「アメリカン・アダム神話」の時代から脈々と続く)まなざしと、もうひとつは主人公シェリルと母親ボビーとの母娘関係だ。今回の記事では映画の感想を深く書こうと思わないので、これらについて考えることはひとまず置いておくけれど、それなりにまとまっていて、よくできた映画だったんじゃないかなという気がする。でも荒野を歩く目的が「自分探し」なんて、ねえ。そういうのにはちょっとうんざりしてしまう。
 
 
映画館を出て、本屋に寄った。後輩の女の子は江國香織が好きらしい。彼女がいちばん最初に読んだ江國作品だからということで、『神様のボート』をプレゼントしてもらった。あらすじを聞いたら、それはどうも不倫していた母親とその娘についての小説ということだ。
 
 
『わたしに会うまでの1600キロ』を見て、本を物色したあと、僕たちは銀座にあるビアホールで食事をした。そこでビールを飲み、アイスバインを食べながら、いつものようにお互いの話をして、終電の小田急で帰った。
 
 
学部時代に文学だけじゃなく映画の勉強もしていたから、趣味として、DVDや動画サイトなんかで適当なのを選んで見ることは多い。いちど見ると止まらなくなって、立て続けに何本も何本も再生してしまい、頭がぼーっとすることもしばしばある。それでも、映画館の大きなスクリーンでみるのは久しぶりだった。彼女のほうも映画館にはしばらく行ったことがなかったみたいで、「ディズニーランド並みにわくわくしますね」と言っていた。
 
 
有楽町の映画館が好きだ。それほど大きくないし、親密な感じがする。ポップコーンのにおい、ふかふかした赤い椅子、予告が終わってカーテンがひかれ、ぐんと大きくなるスクリーン……

f:id:c_kugenuma:20150913060439j:image

水族館

今日もひとりで水族館に行った。2週間ほど前にそこの年間パスポートをとってから、すでに数回は通っている。


とはいえ、水族館はまだ僕にとってそこまで気のおける場所になってはいない。ひとりで水槽をながめていると、いまでも、どうも周りの家族連れやらカップルやらが気になってしまうのだ。彼らの存在を意識したその瞬間に、僕は彼らの目を通して僕自身のすがたを見てしまうことになる。そうすると、もう水槽のなかのイシダイになんて集中できなくなって、自分のトートバッグを握る手のぎこちなさだったり、伸びすぎた髪の毛のことだったりのことを考えてしまう。


それでも、そうした自意識過剰は、はじめてひとりでそこに行ったときよりいくぶんマシになっているような気がする。それはおそらく前回からイヤホンをつけて音楽を聴きながら展示を見るようにしたからだと思う。音楽が流れていて、他のひとの声が聞こえなくなると段違いに気持ちが楽だ。魚の尾びれの動きを5分以上ずっと目で追ったりすることもできるようになる。そんなわけで今日はくるりの『THE PIER』と『図鑑』を聴いていた。個人的にくるりは水族館によく合うんじゃないかと思っている。


僕は数ある展示のなかでもとくにウミガメの水槽が好きだ。今日も複数回にわたってそこを訪問した。ほんとうはもっと、1時間くらいはそこでぼーっとウミガメを観察していたかったのだが、そうすると周りから変なひとだと思われそうで、あとあの子どもたちにも水槽を譲ったほうがいいよなあなんて考えて、なんとなく遠慮してしまった。写真はそれなりにいっぱい撮った。かわいかったな、ウミガメ。


僕が水族館に行ったのは平日の夕方から夜にかけて。いつもより観客のすくないイルカショーはゆるい雰囲気だった。お兄さんがイルカの尻尾をつかんでプールの縁沿いに彼を引っ張っていた。「僕たちはコンビ歴が7年もあって長いから、こんなことしても怒らないんですよ」。イルカはちょっと人間にデレデレしすぎているんじゃないかなあと思う。


帰りぎわ、中くらいの水槽のなかでカタクチイワシの群れが旋回を続けているのを見た。たぶん、これを書いているいまも、彼らはぐるぐるぐるぐるおなじスピードで延々と回り続けているのだろう。しばらくその前に立っていると、イワシの一匹一匹にも、特徴というか、個性のようなものを見いだせるんじゃないかなという気がした。顎のかたちだったり、目の飛び出し具合だったり。いや、もちろん、彼らが自分に個性が必要だなんて感じてはいないんだろうけれど。


f:id:c_kugenuma:20150825035900j:image